マリア様に連れていかれるわよ
リリアンの休日についての事実誤認に関し、 文月の部屋へおいでよ!の文子さまこと文月十一郎さんのご指摘をいただき、本文を訂正しました。 文月さんへの感謝を明記するとともに、ご来参の方々にお詫び申し上げます。 (2003/12/4記)
「ごきげんよう」 「ごきげんよう」 さわやかな朝の挨拶が、澄みきった青空にこだまする。 「ねえ、そういえばマリア様の伝説をご存じ?」 「マリア様の伝説? それって――」 マリア様の伝説。 三七、二十一日の間、マリア様の御像の前で誰にも見られないように願をかければ、その願いは必ずかなうという。 「そうそう、それよ。ただし、その願いをかなえてもらうには」 ――願掛けのその場を、関係のない余人に見られては、決してならない。 「いかにも、ありがちな話だわね、そういう限定があるのって」 「それに何というか、二十一日間なんてはっきりした数字がかえって、信用ならない気がしない?」 「実際にお試しになってみてはいかが?」 「あら、あなたこそ」 そうして笑って終わり。 そんな程度の、しょせんありふれた伝説に過ぎない。
彼女、――武嶋蔦子も、そんな通り一遍の感想しか持たない生徒の一人だった。
「いやあ。祐巳さんも、見かけによらず、大したものだわ」 物陰でカメラを構えて、ファインダー越しに目の前の当事者たち二人を眺めながら、蔦子は舌を巻いていた。 「本当に、祥子さまをつかまえるなんて」 ――ちなみにすでに会心のショットを数枚おさえているので、蔦子は余裕で二人を観察していた。 早朝。ここは銀杏並木に向かう手前の、二股の分かれ道。正面にマリア様の御像。 その前で背の高い美少女が、少し低めの女の子の胸元に手をやって、タイをなおしているところだった。 その、タイをなおしていただいているのは同じ高等部一年で蔦子のクラスメイト、福沢祐巳さん。そしてなおしているお方こそ二年生の小笠原祥子さまだ。 山百合会の幹部、紅薔薇のつぼみ。 大財閥のご令嬢。 そして何よりご本人自身、才色兼備の名も高い。 ――要するに下級生たちの文字通り、高嶺の花、憧れの的というわけで。 「まったく、このところ毎朝毎朝、網を張っていて良かった」 ほんとう、何となく勘が働いて、蔦子はずっと早起き。 カメラを構えて出張っていた甲斐があったわよ。 (そう、私は知っている) いま、何食わぬ顔をして祥子さまのお手を煩わせている祐巳さんが、実は、――このほぼ一月の間、朝早くこのマリア様の御像の前にやってきていたこと。 そして何だか知らないけど、熱心にお祈りしていたことを。 しかしなぜ、祐巳さんがそんなことをしているのか。 「つまりは、願いがかなったというわけか」 蔦子はついさっき、やっと思い当たったばかりだ。 (今日はたしか、祐巳さんの姿を見かけるようになってから、ちょうど二十一日目だわ) 二十一日の間、人知れず、欠かさずマリア様に祈りをささげれば、願いがかなうという、――わがリリアンに昔から伝わる、まさにその伝説どおりだ。 (あんな本、大事に持っているから何かと思ったけど) あんな本、というのはリリアンの修道院が発行している、主に幼稚舎向けのご本。その名も『マリアさまのおはなし(1)マリアさまにみられてる』という。 中身はマリア様の古典的な逸話の他、リリアンに伝わる伝承も含めて編集されている。子供に初歩的な教理を啓蒙する目的の本である。 ――高等部の、それもたいして宗教に熱心とも思えない祐巳さんなのに。つい先日、この本を後生大事にカバンにしまっているのをたまたま見つけて、蔦子はいいかげん不審に思っていたのだけど。 (なんかあの本って、そういえばどっちかというと〈こんなに怖いマリアさまのおはなし〉って題名つけたほうが良いような感じだったのよね) たしか、――こんな良くないことをすると、マリア様がこんな恐ろしい罰をお下しになりますよっていう、話ばかりで。 マリア様を尊敬するどころか、かえってみんな、怖がって近づかなくなるんじゃないだろうか。 二十一日お祈りをささげると何とかだ、という、この話に至っては、どこに教育的な意味があるのかさえ分からない。どう考えてもただの昔話か何かでしょうに。 (――そういえば、この話って) なんか最後が怖かったような記憶もある。きちんと覚えてないけど。 (それにしても、二十一日間というと、日曜は数に入るのだろうか?) この辺の曖昧さがいかにも〈おとぎ話〉らしいところだが。土曜は学校があるからいいとしても、 (休みの日まで、学校にもぐりこむなんて) さすがに蔦子も日曜まで張り込みをしていたわけではない。ただあとで気がついて、念のために守衛さんに確認したのだ。 休みの日は門に守衛さんが控えていて、その眼を逃れることはできない。むろん出入りは少ないので、守衛さんも〈ツインテールの女の子〉を記憶していたのだ。 そう、忘れ物をしたのなんのといって入り込んだ女の子を。 (ほんとう、見かけによらず、大した執念だわ) それもこんな、あやふやな伝説に入れ込んで、よ。 (――しかし結局、人間って見たいものを見て、信じたいことを信じるものなのね) 福沢祐巳さんが紅薔薇のつぼみ、小笠原祥子さまにお熱だということを、蔦子はよく知っていた。むろん祥子さまにあこがれる人間は別に珍しくもなかったにしても。 その祐巳さんがマリア様にお願いをするとなれば、 (祥子さま関連に決まっているわね) それも、ああやって制服をいじってもらう程度のことだろう。まさか世界征服ではあるまい。 (ことにも志摩子さんが、祥子さまを蹴って白薔薇さまの求愛を受けたってばかりだもの) 祥子さまとタイプは違うけど、やはり才色兼備という雰囲気の藤堂志摩子さん。 同じ桃組のクラスメイトの彼女は、祥子さまと白薔薇さま、つまり三年の佐藤聖さまの双方からアプローチを受けて、あげく白薔薇さまを選んだという。 最近もっとも注目の話題である。 (そりゃ祐巳さんのお祈りにも、ここぞとばかりに気合が入ってたわけよ) 祥子さまが妹をお作りにならぬまま、かろうじて〈セーフ〉――おそらく祐巳さん的には――だったのだから。 しかしこんな親密な雰囲気で、祥子さまに接触できるなんてね。やはり祐巳さんの熱心さを嘉したもうたマリア様のお恵みかしら。 「――と、終わったか」 整えるためにいったんほどいた祐巳さんのタイを、祥子さまはきちんと結び終えたようだった。 それにしても祐巳さんのうっとりした、憑かれたような、あの目といったら。 (もう一枚撮ろうか) 蔦子はもう一度カメラを構えた。 (――これでよし) ファインダーの中に二人の姿を捉えなおした、ちょうどそのとき。 ふと、冷たく風が吹いて、 「身だしなみには、気をつけてね」 風に乗った祥子さまの声がクリアに聞こえてきた。 (そう、気をつけてね祐巳さん、ふふん) そうそういつも、柳の下にドジョウはいないわよ、と蔦子はこっそりつぶやく。 (よし、今度はツーショットじゃなくて、この幸せそうな顔をアップにして一枚) ご注意をいただきながらも、うっとりとしたままの祐巳さんの顔を中心に据えて、――と、そこへ祥子さまの涼やかなお声が続いて蔦子の耳に届いて、 「さもないと、――マリア様に連れていかれるわよ」 (そう、マリア様に連れて行かれる――) ――は? 蔦子はカメラを構えたままで、ちょっと首を傾げた。 「え?」 声とともに、ファインダーの中で祐巳さんの顔が当惑していた。 (うーん) 蔦子はレンズを少し横に振り向けた。 祥子さまは、――微笑するともなんともつかない、謎めいたお顔で祐巳さんを見つめていた。 (恐れながら祥子さま。何ですの、それ?) どこか良いところにでも連れて行ってくださるのか? (天国かな、やっぱり) なんちゃって。 われながら、つまらないことを考えてしまったものよ。――蔦子がカメラを下ろし、うつむいて肩をすくめた、ちょうどそのときのことだった。 悲鳴が聞こえたのは。 「え…………、ええええっ!」 (祐巳さん?) 蔦子は思わず顔を上げて、 (え…………、ええええっ!) 何よ、あれ!? って、あれって、―― 手が、手が、 (マ、マリア様から、手が!)
私は夢を見ているのだろうか。
マリア様の御像の、その白き御手が伸びて、――祐巳さんの首根っこを、しっかりと捕まえていた。 「ああああ、――うぎゅ」 手はそのまま祐巳さんの襟元をつかみあげると、まさしく猫の子をつるすように、祐巳さんをつりあげはじめた。 そしてそのまま、手は白い袖口の中へ収容されていき、 「きゃああぁぁ…………」 祐巳さんはその袖口の中へ吸い込まれて、消えていった。
「あ……」 ふと気がつくと、いま袖口の中へ消えたはずの手が、いつのまにか表にあらわれていた。 マリア様の御像は元通り、何事もなかったように、しずかにそこに鎮座しておられた。 ――祐巳さんの姿だけが、どこにもなかった。 (あっ!) 御像の袖口に、布切れらしきものが引っ掛かっていて、蔦子は息を飲んだ。 「……」 小さなため息とともに、白い手がすっと伸びて、その布切れを手に取ると、 「そう。――私が注意するまでもなく、すでに術は破れていたようね」 そのまま布切れを台座の下において、祥子さまはそれにそっと手を合わせ、 「また一人……妹候補が消えたわね」 祥子さまは御像を見上げた。 「ついには私の申し入れを断る子まで、出る始末よ。マリア様」 そしてすっと後ろを振り向いた。 (ひっ!) 蔦子は反射的に首をすくめてしまったけど、祥子さまは気づいたのか気づかなかったのか。――もう一度ため息をついた。 そして、すたすたと何事もなかったように、校舎のほうへ去っていってしまわれた。 「ゆ、祐巳さん――」 蔦子は物陰から出てきて、御像のそばに寄ろうとしたけれど、 「――ごめんなさい」 ごめんなさい、祐巳さんっ!…… どうしても足がすくんで動けず、蔦子はそのまま方向転換して、駆け出した。
その日以来。 一年桃組三十五番、福沢祐巳さんの姿を見たものは、誰もいない。 それどころか、不思議なことに、――誰ひとり、祐巳さんのことを覚えていなかった。まるでそんな生徒は最初からどこにもいなかったかのように、あらゆる生徒の記憶から、祐巳さんの存在はきれいさっぱり消えていた。 もっとも蔦子と、――そして恐らくはもう一人を、除いてだけど。
マリア様の伝説。 もし他人に見られていることを気づかずに願が成就すると、その成就と引き換えに、恐ろしい代償を支払うことになる。 そんな結末を蔦子が思い出したのは、それはもう、ずっと後のことだった。 |
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