紅薔薇さまの心 Crimson Family's Tradition
「寄せ書き?……ああ、そうだったわね」 祥子が差し出した色紙を手にとって、蓉子はつぶやいた。 卒業前の紅・白・黄、三薔薇さまが一筆ずつ書きおいた寄せ書きを、記念品として後々まで伝えていくのが、長年にわたる山百合会歴代の例である。 「はい。お願いできますでしょうか」 うっかりすると忘れそうなものですから――そう言う祥子は卒業式まで、もはや間もないこのごろ、会うごとに忙しさをましているようだ。さすが、身なりに乱れたところは全く見当たらないけれど、目もとの疲れまでは隠し切れない。 (そう、そういえば――去年も、聖や江利子ではなくて私が、紅薔薇のつぼみが、同じことをお姉さま方にお願いしてまわったのだったわ) そうでなくとも年度末の忙しい時期で。 この種類の不急で、かつ〈いつでも大丈夫〉にみえることは後回しになりがちだ。それだけに注意する必要がある。ことにも外部進学組であれば、後になってからお姉さまを追いかけていくのも――大変だ。 (そう、そういえば――) 自分が色紙を頼みに行ったら、とつぜんお姉さま――つまり先代の紅薔薇さまが笑い出した。――そのことを、不意に蓉子は思い出した。 (あのとき、お姉さまは何で笑われたんだろうか) 蓉子が思い出にふけっているところへ、茶色の扉がいきなり開いた。 「おおおおっ、おっ、お姉さまあっ!」 息せき切った祐巳ちゃんがツインテールを振り乱して駆け込んでくる。本日はまた、にぎやかさにも念が入って、いつもの三割増というところかしらね。 「いったい何よ、祐巳。騒々しい!」 多少疲れが混じった声で祥子が祐巳ちゃんに向き直った。。 「ももももっ、もっ、申し訳ありませんっ。えーとっ、その、そうそう、いま業者さんから連絡があって、例の用紙の枚数が、ちょっと揃わないかもしれないって」 「何ですって、今ごろになって! いいわ、私がじかに交渉します、ついていらっしゃい、祐巳!――」 と祥子が振り返るのに、 「かまわないわよ。今日はヒマだからここで留守番しているわ」 留守番中に寄せ書き書いているから、ゆっくり、じっくり行っておいで――と蓉子が手を振ると、祥子は 「申し訳ありません、では――」 会釈して、祐巳ちゃんと二人で急ぎ足に出て行った。 蓉子ひとりになった。 (ああ――静かだわ) 冬の日差しが差し込んできて、ろくに暖房も入っていないのに部屋は暖かい。 (誰も見てないし) 蓉子は両手を伸ばして大きくあくびをしようとしたが、 (――いいえ) 首を左右に振ってやめた。 「誰もいないって、やっぱりさびしいよね」 ひとりごちて窓際に寄り、下を眺めてみる。 (――無理か) この寒空にわざわざ通りかかる酔狂な生徒など、誰ひとり見当たらなかった。 (なら――ネコでもいいのよ) 目をこらして遠くまで見渡したが、ネコもいなかった。 しかたなく机に戻って、色紙を前に思案をはじめる。 (……うーん) 何を書こうか。 何も思いつかない。どうもこういったことは苦手だ。 気の利いたことを書こうとすればするほど、詰まってしまう。 (そうだ、〈参考文献〉でも見るか) 蓉子は書類棚に寄ったが、歴代の色紙が入った引出しには鍵がかかっていた。 (あ……しまった) 引継ぎはとうに済んでいるので、印鑑その他を含めた山百合会役員の付随物は、すべて妹たちの手に渡っている。むろん鍵もだ。 (こういうときこそ本当、自分が隠居だって実感するわね) 仕方がないので、せめて去年、自分のお姉さまが何を書いたのか思い出そうとしたが、 (あれ?) 情けなくも、全然思い出せなかった。 (えーと……何か変な言葉だった記憶はあるのだけど) ことわざ? 聖句? (でもないわ。そんな畏れ多い言葉ではなかったはず) いったん気にかかりはじめると止まらなくなって、色紙の上で手が立ち往生してしまった。 つくづく、われながら貧乏性だ。――蓉子は何とはなしに疲労を覚えた。 とにかく、一度気にかかったことを放置して置けない。 物事が放置されたままというのが、自分のことでも他人のことでも気になって仕方がない。 多少出しゃばってでも片をつけてしまいたい。 (そういえば、あの子もそういう感じよね) べつに祥子をそんな理由で選んだつもりもなかったが。 しかし祥子のあの気のつき方、配り方――いや、 (あの子についてはむしろ〈気の回し方〉というのが正しいわね) よく気がつく反面、気を回しすぎて踏み出すべき時に踏み出せない。 まあ、それはおいて、ともあれ貧乏性という点では、少なくとも次の紅薔薇さまも、自分と似たようなことになりそうだ。 (それに実際、気の持ちようや、あり方は違うにしても、祐巳ちゃんもそういう部分を濃厚に持っている子だわね) つい先ごろ、たまたま行き会ってつかまえたおりに「祥子のことをよろしくね」といったら、予想外に深く、じっと考え込んでしまったではないか。 (そんなに深刻なことを言ったつもりもなかったのだけど) あのときの少しくすんだ顔色を見れば、祐巳ちゃんが自分の発言をちょっと真剣に受け止めすぎたことは明らかだった。 近いうちにいちど、フォローしておいた方がいいかもしれない。 (――って、こんなふうにいちいち気にすること自体が、ほんとう貧乏性かしら) いや、むしろ。 貧乏性こそは――歴代紅薔薇さまの習い性と見極めたり。 (……あ) 蓉子は立ち上がると壁際の筆記用具入れに近づき、目当ての筆ペンを取り出した。 それから机に戻ると色紙をしっかりと片手でおさえ、
〈貧乏暇なし〉
と楷書で大書した。そのわきに少し小さな字で――水野蓉子――と署名して、 「ああ――すっきりしたわ」 蓉子は心ゆくまで大きく背伸びをした。 |
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