千里の道も一歩から The longest journey starts from the first step
残暑の折から。 ビスケット扉を開けると、そこは雪国だった。――わけではないけど、 「申し訳ありませんっ!」 代わりに真正面で、こわばった顔の祥子さまが腕を組んで座っていたので、祐巳は反射的に頭を下げてしまった。 頭を下げすぎて、何冊も抱えた本の重みが手にずしりと掛かってくる。 でもしっかりと頭を下げないと、ブリザードが吹き付けてきそうな気がして。 (頭は早めに下げるにかぎるっ!…………あれ?) 一、二、三、四、――十まで数えても、なんにも吹き付けてこなかった。 祐巳が恐る恐る顔を上げると、祥子さまの横の令さまが、 「どうしたの、祐巳ちゃん?」 「いえ……何となく、先手を打ったほうがいい気がして」 「先手って何よ……」 呆れられてしまった。まあそれは今さらだから別にいいのだけど、 「あの――令さま」 「これのこと?」 令さまは祥子さまを指さした。祥子さまはじっと腕を組んだまま――というよりは、よく見ると、むしろ表情と全身が凍りついたままという感じだった。 「何かにお怒りと――いうわけではないんですか、令さま?」 「みたいよ。これはねえ――」 令さまは祥子さまを指さして、 「よく分からない」 「はあ」 「今日は家に帰るってさっき、いったん出て行ったのに、いきなり戻ってきたかと思うと、ほけっと座り込んだまま、このありさまなの」 「はあ」 「帰ってきたときなんか、もう瞳孔開いちゃって、――こーんな具合に」 令さまはご自分の目をクワッとむき出して見せると、 「大きな白目に瞳は点よ。……何か怖いものでも見たのかしら」 「怖いもの――ですか?」 祥子さまをおびえさせるものって――いったい何? 「何が来ても『お黙り!』とか『さがれ、無礼者!』とか一喝して終わりって感じもしますが」 「祐巳ちゃん……『無礼者』って、時代劇じゃないんだから」 まあ、でも祥子なら「うつけ者!」くらいやりかねないかと、ご自分でも適当なことを言いながら、令さまは、 「――おーい祥子。祐巳ちゃんだよー」 目を覚ませー、と令さまが祥子さまの耳のそばで声をあげると、祥子さまはようやく――力のない声で、 「…………あら……どうしたの、祐巳?」 ――やっぱり気がついていなかったのか。 「お、お姉さま、ごきげんよう」 「……ごきげんよう……それで、どうしたの?」 「いえ――何となく」 「……あら……そう……」 (――お姉さま) いつもならこの辺で「〈何となく〉って何が〈何となく〉なのかしら」とか「私の質問には適確に答えを返してちょうだい」とか、叱られるところなのに。―― お姉さまのテンションは限りなく低くて、あからさまにマイナス気味だった。 マイナスの祥子さまって、 (きょ、今日はどんな恐ろしいことが?) ついでに祐巳の思考もマイナス気味だ。令さまが、 「いや、そんなに真っ青にならなくても――別に何も起こらないと思うけどさ」 そういってボールペンを祥子さまの目の前にやって、くるくると回した。 「……ちょっと……やめてちょうだい」 やっぱり力のないお声だ。令さまが呆れ顔で、 「とにかく、なにしにわざわざ薔薇の館まで引き返してきたのよ?」 「…………」 祐巳は祥子さまに近寄り、抱えてきた本を机の上に下ろした。それから祥子さまの隣に座って顔をのぞき込む。 「あの――お姉さま」 「…………」 「どうなさったんですか?」 「…………」 何かつぶやいた。 「はい?」 「……くまにまたがり、おうまのけいこ」 「――は?」 「……はいしどうどう、はいどうどう」 「――は、はいどうどう?」 (これは、ひょっとして) どこかで聞いた――そう、歌だ。 (えーと、何の歌だったっけ?) 「おや、祐巳ちゃん。本借りてきたの」 令さまが、さっき祐巳が机の上に置いた本を手にとった。ここまで何冊も、えっちらおっちらと抱えてきたのだ。 「日本の古典か。――おや、一冊だけ、仲間はずれが混じってるね」 「あ、はい。子供のころ読んだことはあるけど、たまたま目に入って、懐かしくなって、つい」 「そう、いいわね。祐巳ちゃんの次に貸してもらおうかしら。――祥子?」 お姉さまは――またブツブツと何か、つぶやいていた。 (――?) 今度は内容が変化している。 「……そう、そうよ……逃げちゃダメよ逃げちゃダメよ逃げちゃダメよ」 壊れたレコードプレーヤーになって、何度も何度も「逃げちゃダメよ」と繰り返し、 「……この程度のことで、負けるわけには……私は負けない……負けない」 すっくと立ち上がると、 「負けない負けない負けない、私は負けない! けして、けして負けはしない!!」 「お、お姉さま!」 ズダダダダ!!――祐巳は思わず、すさまじい音を立てて、うしろに椅子を引いてしまった。そんなことには取り合わず、カッと目を見開いた祥子さまは、 「ええ、そうよ、そうよそうよ、私は負けない負けない、負けないわよ! そうね祐巳っ!」 「は、はははは、はいっ!」 「私はなにっ!」 「はいっ! お姉さまは――えっと、常勝でいらっしゃいますっ!」 「そうよ、私は小笠原祥子、常勝の祥子、ミラクル祥子よ!」 勝利か、さもなくば死か、――いいえ!! 「勝利か、さもなくば、より完全なる勝利よ!!」 「えっと、こういう場合どう反応すればいいのかしら――そうそう。やんや、やんや」 こちらは動ぜず、悠然と座ったままの令さまが手を叩いている。 拍手を背にすっくと立ち上がった常勝のミラクル祥子さまは、 「ときに祐巳!」 「はいっ!」 「何よそれは!?」 「本ですっ!」 「そうね! どこから見ても本だわよ! ちょっとお見せなさい!」 「はいっ!」 「まあ! 日本の古典ね!――それから」 クワッと目を見開いて本の表紙をお目に止められた、常勝の祥子さまの動きが――、 「祥子?」 「お姉さま?」 突然止まった。やがて、 「――ひっ」 祥子さまは一声もらし、本を持ったまま――、 「お、お姉さま!」 「あ、あ、あ、あ、あ――」 「お姉さま!?」 「……くまにまたがり、おうまのけいこ」 「――は?」 「……はいしどうどう、はいどうどう――」 「――は、はいどうどう?」 「ああ――今こそ、逃れられぬ――呪われし前掛けの祟りが……わが身に」 「呪われし前掛けの祟り?――って、お姉さま!?」 祥子さまは右手で天を指差し、左手で祐巳の本を指さして、――そのまま卒倒した。
ビスケット扉が開いて、由乃さんが入ってきた。 「ただいま――あれ、どうしたの、祥子さま?」 ぐったりと横たわった祥子さまを見て首を傾げる。 「おかえり由乃。おつかいご苦労さん。――ちょっと何だかよく分からないのだけど」 とりあえず休ませておけば大丈夫みたい、と令さまがいうのに、由乃さんは「なら、いいけど」といった。令さまがたずねる。 「志摩子や乃梨子ちゃんは?」 「ちょっと学校の入り口でお話してる。すぐ来ると思う」 そう言って由乃さんは机の上に目をやると、 「あ。――祐巳さんが借りてきたの、これ?」 「うん」 「そういえば、さっき見たわよ、この人」 「え? この人って?」 「だからこの人」 由乃さんはそう言って、祐巳の本の題名を――正確にはその題名の一部を――指さした。 「この人、たぶんまだ校門で、志摩子さんや乃梨子ちゃんとお話してるわよ」 私は少し急ぎだったから、先に帰ってきたのだけど、と由乃さんは言った。それを見た令さまは、少しおいて、 「ひょっとして――ずっといたの、この人?」 「みたいね。山百合会の誰かなりと、会えることを期待してたみたいよ」 祐巳は令さまと顔を見合わせた。 「ひょっとして?」 「祥子ったら、それでUターンして、ここへ戻ってきたのかしら」 あの戦慄の会合からまだ何日も立っていない――〈抱きつかれた〉祥子さま、そして〈抱きついた〉男子、――有栖川金太郎。 (いったい何があったんだろう?) 出会っただけか、また抱きつかれたのか、もっと凄いことがあったのか。――祥子さまは黙して語らない。祐巳は机の上に置いた本――『不思議の国のアリス』――をながめた。 「あ……」 表紙の絵の中、アリスのエプロンが一瞬、光を反射して、――赤い色に見えたような気がした。 「金太郎ね……」 赤い前掛けの金太郎。 足柄山の金太郎、クマにまたがりお馬の稽古。 ――行く手に伸びる道は、まだ長い。
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