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天敵の多い光景

The Three Enemies

 

――はじめに――

 本作は今から半年前、L'eau de rose の主催者・砂織さまの、助言・校正・添削を含む多大なご協力により仕上がったまま、お蔵入りになっていたものです。砂織さまへの謝意とともに、委細は日記のother texts 2004年5月23日付で記載しております。砂織さまのサイトの常連の方なら、その砂織さんの以前の日記欄の記載について、多少ご記憶のむきもいらっしゃるかもしれませんので、多少の種明かしを覗く程度に思し召し、よろしければ一瞥賜りませ。

 

 

 

  1

 

「やあ、ごきげんよう」

 さわやかな朝の挨拶が、澄みきった青空にこだま……しないね。

 だいたい朝じゃなかった。でも、冬の寒さに引きこもりがちな気分を、ハッと目覚めさせてくれるような声だろう?

 もっともそれを口にしたのは、天使のように無垢なる乙女、とはいかないけれどね。

「いやはや、まことに奇遇ですね」

 ――いまどきの若者の言葉かよ、なんてツッコミ、大きなお世話だ。

「紅薔薇さまにもごきげんよう、おひさしぶりです。白薔薇さまにはこの正月、小笠原の本邸でもお目にかかったのですが」

 ここはM駅南口を出てすぐの街角、時刻は昼下がり。

 先の学園祭での客演以来、リリアン女学園ではいまだ「王子さま」と呼ばれもするという花寺高校の柏木優は、こちらは正真正銘の「お姫さま」ならぬ〈薔薇さま〉がた、すなわち白薔薇さまこと佐藤聖くん、紅薔薇さまこと水野蓉子さんのお二人に、いかにもな笑みを浮かべ頭を下げた。腰をかがめたその角度は、お手本で通用する端正さだ。だれの目にも、われながら文句のつけられないくらい。

 それにひきかえ、

「……ごきげんよう」

 リリアンの、み名もうるわしき白薔薇さま――のはずの聖くんは、無愛想な顔でお義理程度に首を上下にふっただけだった。これでよく人の上に立てるものだね。

「ごきげんよう。こちらこそご無沙汰でした、柏木会長、いえ、前会長さま」

 かわりに紅薔薇さま――蓉子さんが、二人分ほどもていねいにおじぎをする。空気を読んですかさずフォローするあたり、さすがにさっちゃんの〈姉〉――いや、これこそ一年のあいだリリアンの頂点に立ってきた、先代紅薔薇さまのご器量というものだろう。

(いや、まだ現役なのか?)

 柏木はふと疑問に思ってたずねてみた。

「失礼ですが、ひょっとしてお二人の場合は、まだ薔薇さまとお呼びしてよろしいのですか?」

「はい、二人ともまだ、薔薇さまですわ。もっともそちらとおなじく選挙もすんで、仕事はとうに〈つぼみ〉に引きつぎましたし、いまは名目だけ。それさえあとわずかですけど。くわえて受験生でしたから、このところはあまり学校にも出むいてさえおりません」

 ちなみに白薔薇さまが英文科、私は法科ですと、蓉子さんは付け加えた。 

「そうですか。僕のほうはそのまま上に進学ですから、ヒマをもてあましています。まあ隠居でも部室に顔出すくらいなら文句も出ませんので、ちょくちょく出かけては後輩をからかうのが日課ですよ」 

 美少女一人に美少年一人、そしておまけの少女がもう一人。道端にたまった三人は、普段なら十分に目も引いたろう。けれどこんな寒い日、バレンタイン・チョコの売り声が消えて何日もたった、風の日増しに冷たくなる季節に、わざわざ立ち止まる物見だかい人間はいなかった。つまり今日の柏木たちは珍しいことに、たいして目立たない感じだったわけだ。

 ――いや、ただし〈目立たない〉とはいってもそれは、時節にふさわしい近況を、寒気のするくらい模範的な言葉づかいで、おだやかに語りあっているかぎりでだけどね、むろん。そしてここには残念ながら、礼儀も場所もわきまえない人間がひとり――聖くんはいきなり柏木に突っかかってきた。

「後輩をからかうのが日課ね――からかう程度ですめばいいけど。ともあれ花寺の風紀を乱したと評判の高い柏木優、生徒会長が、ついに年貢をおさめて名なしのご隠居か――じゃあ代わりの肩書きが必要ですわね。えっと――そうそう! 〈バラ族プリンス〉略して〈バラプリ!〉というのはどうだ、ええ、〈バラプリ!〉」

 それもエクスクラメーション・マーク付きよ――と、聖くんはやたら楽しげに両手をこすりあわせ、

「いやわれながら傑作だわ、バラプリ!――ちょっと、ちゃんと聞いてらっしゃりますのん柏木さま、他ならぬあなたさまのことでしてよ。お耳ついてらして?」

 わざとらしくもマジメそうな顔、そしてばかていねいな言葉遣いで、口からでまかせの言いたい放題だった。顔を合わせた早々これだ。

「……君の言語センスは何というか、常人が良識的に了解可能な領域の、はるか外部に存在しているようだね」

「自分が何言ってるのか、きちんと理解してるか、バラプリ?」

「分かりにくいなら、ひとことで言おうか。つまり君の発言は単に意味不明で、さっぱりわけが分からん」

「どっちがだ。まあしかし、やはりググッと直接的に〈ギンナン王子〉も捨てがたいわね」

「だから、分からないと言って――ギンナン? 何かな、それは?」

 ちょっと虚をつかれて、柏木は形よい眉をひそめた。

「ギンナンはギンナンだ、ギンナンも知らないのか。イチョウ科イチョウ属イチョウの木の実にきまっている。リリアンにギンナンの木がたくさん植わってるのは、貴様なら身にしみて良く知ってるはずだろうが、柏木」

 言われて柏木はさすがに思い出した。つまりは学園祭時のトラブルの、あまりに分かりやすい当てこすりだった。

「なるほど、確かにあのおりには、いろいろとご迷惑をおかけして申しわけありませんでした。例の王子の衣装は、すぐにとおっしゃったのでそのままお返ししたわけですが、本当のところ汚れはきちんと落ちていたのでしょうか、紅薔薇さま」

 学園祭当日に異常は感じませんでしたが、シミの有無といったことまで、よく確認したわけではありませんでしたので――と、柏木は蓉子さんの側を向いてあらためて頭を下げた。

「お気づかいありがとう。まったく問題ありませんでしたから、ご心配なく」

「いや、まったく、ご心配なく。柏木さまこそ、あのニオイが玉のお肌に残って正真正銘のギンナンの国の王子さまにおなりあそばすのではないか。こちらとしては、それこそを心の底から心配しておりましたのよ」

 ギンナンのニオイはあとに残りますもの、と聖くんがかさねて嫌味を言った。

「これは畏れ多くも白薔薇さまにまで、かさねがさねご心配いただいて恐縮です。確かにあれからしばらくの間、母やさっちゃんにまで臭いとかいわれましたけどね」

 柏木はそういって笑った。わざと祥子の名前をつづけたとでも受け止めたのか、聖くんがいやな顔をする――蓉子さんの表情は読めなかった。

 この紅薔薇さまにいったいどう思われているのか、柏木には見当がつかなかった。あのとき、あの場まで、柏木との関係について、さっちゃんは何ひとつ口を開こうとしなかったというが――それは隠し立てを好まぬはずの、彼女らしからぬ恥じらいか。

(それとも、この〈姉〉への配慮か)

 とすれば、やはり理解できない種類の気づかいだな――柏木のいつわらざる実感だった。

 

  2

 

 M駅南、とある喫茶店の窓辺の席。

 厚手のテーブルをはさんで、柏木の向かいの大きなソファに聖くんと蓉子さんが並んで座っている。

 ちなみにここはこの近辺ではけっこう有名な店で、それこそ情報誌などの武蔵野名店リスト・トップ10の常連だったりするくらいだ。

 そのわりには誰でも気軽に利用できる値段なので、高校生の出入りも少なくない。むろん、あまり校則のうるさくない学校に限るけれどね。

 ともあれ柏木もここの常連の一人で、対する薔薇さまがたもご同様だったらしい。

 席に着いたとたん、顔をこわばらせた聖くんと柏木との二人の間で口喧嘩が始まった。

「なんで貴様はこんなところ――それもよりによって他人さまのテリトリーにまで、ノコノコと踏み込んでくるんだ、柏木!」

「それはこちらのセリフだ。君だけがこの店のなじみだとでもいうのかい。だいたいテリトリーというなら白薔薇さまこそ、まさに君のテリトリーである薔薇の館へ行って、水入らずの女子同士、くつろがれたらいいじゃないか」

「バカをいうな、何でこの寒いのに私たちが出なきゃいけない。貴様こそ自分の学校へ行けばいいだろう。毎日ノコノコ顔だししてますって言ってたじゃないか」

「僕はまさにその学校からの帰りだよ。何しにわざわざ戻れというんだ。そもそもしょせん男子校のわが花寺には、優雅にお茶をすするようなスペースなんかないのでね。ない人間がある人間に譲ってもらうのは不合理じゃないと思うが、いかが白薔薇さま」

「ふん、貴様にはレディ・ファーストという言葉のわきまえもないのか。男、男と偉そうにいうくせに、少なくとも〈紳士〉ではないわけだ」

「君の口から間違っても〈レディ〉だなんて言葉を、聞かされたくはないな」

 ――とまあ、こんな調子だ。

 最近ではM駅周辺も再開発の真っ最中だし、このあたりも〈喫茶〉とは名ばかりの、作り置きの簡易喫茶のほうが多くなった。

 だからここは有名なだけではなくて、現在では駅から歩いてすぐの範囲に残った、唯一の〈喫茶店〉でもあった――のだけど、

「……いっそバーガーショップでもよかったのに……」

 蓉子さんがこっそりつぶやくのが聞こえた。

 いや――聞かせるつもりで言ったのか。とにかく「自分の趣味としてオーケー」じゃないだろう。行き先を別にしたかったという意味に決まっている。

 まったくそのとおり、お互いさまだよ、と柏木は思った。だけど駅前でからみだした聖くんを無視して歩き出したら、あなたがたまで後についてきたんじゃないか。

 この店は裏通りに入ってせいぜい四五分だ。高校生の行ける場所なんてかぎられてる。方角も目当ても同じと気づくのに時間はかからなかった。

 同じく察しをつけたのだろう。聖くんは口を引き結び、足を早めて歩き出した。しかも片手に蓉子さんのコートの裾を引っつかみ、明らかにいやがる風情の彼女を有無をいわせず引きずっていった。

 それを見て柏木は、もう少しで笑い出すところだった。

(へえ、お調子者としっかり者の二人にも、立場が逆転する瞬間があるのか)

 感心しながら同様に足を早めて歩いた――ただし見苦しくない程度の歩幅でだが。

あげく同時に店内に踏み込んで、カン違いした店員に(そりゃ無理もないけどな)そのままただちに同席に案内されてしまう始末だ。席を替えろとごねれば逆に悪目立ちすると即断したのが運の尽き。席についてすぐに、残りわずかだった他の空席も埋まってしまう。もう今となっては観念するほかないよ。

 ――平日の午後、少し遅めの昼下がりに、寒さを避けるお客で店は繁盛して、もう本当に人いきれで暑苦しいくらいだった。顔がだんだんと汗ばんでくるような気がする。

 それにしても聖くんはいいかげん小うるさかった。しかも持ち出される話題がだんだんと際どくなるので、いささか慎重に答える必要があった。

「――だいたい、かねてからの疑問だがバラプリ柏木、貴様の同類のどこが〈バラ族〉なんだ。とにかく薔薇だなんて冗談じゃない。どう考えても熊かマントヒヒで十分だろうが、ギンナン王子さんよ」

「だから誰がギンナンで何がバラプリだ。それにしてもさっきから聞いていると、熊だか何だか知らないが、そういった怪しげな知識はどうも君のほうがよほど、くわしいんじゃないのかい?」

 バラ族という言葉が男性同性愛者のなかでも取りわけ、ムサくるしい男らしさを強調する同性愛者を指すことは柏木も承知している。ただし、あえて口にはしないけれど。

「しらじらしい。まあ、もし本当だとすれば教科書にあった、弓の名人が弓を忘れたという小説みたいに、貴様はさじすめバラ族の親玉にしてバラを忘れた口だな」

「その奇妙な言葉を堂々と口にするのはやめたまえ。いちおう仮にも、とりあえずはリリアンの生徒のくせに、いいかげん恥を知るがいい」

「恥も何も、べつに私が作った言葉じゃないんだから仕方ないだろう。それともクマ族やヒヒ族のほうがいいなら、いつでもそう呼んでやるよ、男色家」

「おやおや、この僕を見て、よくもそんなクマやヒヒなんて言葉を思いつくものだ。君の自由気ままで無根拠、無制限な想像力にはつくづく恐れ入るよ」

「言うにこと欠いて〈この僕〉だと。ナルシストのギンナン王子め、とうとう男色家の毒が頭にまわったか」 

 聖くんがそう言ったところで、蓉子さんがうんざりしたように口をはさんだ。

「あなたもいいかげん、頭に毒がまわりぎみよ、聖」

「……それってどういう意味?、蓉子」

「もう少しおだやかに話ができないの。そう、いい機会だし、このおりに柏木さまのご専門について、いろいろご教示でもいただくことね。とりあえず世の中の物事で、知ってて損になることはひとつもないわ」

 柏木は思わず蓉子さんの顔を見た。

(ちょっと待て、冗談じゃない。だいたい紅薔薇さま、あなたは聖くんの暴走を引きとめるどころか、かえって煽動するおつもりか?)

 周囲は完全に他人の目ばかりだというのに、蓉子さんはとにかくお疲れのご様子で、先ほどからほとんど話にも加わらず、だからといって聖くんを制止するわけでもなかった。

(まったく、このあたりの反応がいかにも〈女〉だというか……)

 柏木は思わず肩をすくめた。リリアンが別に嫌いなわけではない。ただし女だけで閉鎖したスール制度に象徴されるような、時代錯誤で勝手な思い入ればかりは、僕にはとうてい理解できない。あげくにしょせん男に分かるものかと、部外者扱いではじき出され、奇妙な嫉妬や反感のとばっちりまで受けるだなんて、本当に迷惑至極というものだ。

 ――と考える柏木は、男一般ではなくて自分が、そもそも柏木優本人こそが少女たちの不信をかっていると、まるで気がついていなかったのだ。

  

 それにしても聖くんの攻撃につい柏木も受けて立ってしまって。口論はいっこうに止む気配がない。

「――ところで王子、貴様はいわゆる受けか、攻めか、それとも両方なのか? 銀杏の並木で祥子を追いかけまわしていた折には、最悪ひょっとして両刀かと心配したのだけど」

「意味不明の言葉で他人の性癖を適当にでっちあげて、勝手に心配しないでもらいたい。まあ世の中がどうなっても、君にだけは絶対に一生、迷惑はかけない。だからお気づかいは無用だ、白薔薇さま」

「どういたしまして。こちらこそ何がどうなっても、そこまで身を落とすつもりはないから。ただし場合によっては、祥子以外にも世間の女子が迷惑することになりかねない」

 そこまで言って聖くんは柏木の鼻先に指を突きつけた。

「よって貴様の正体を明らかにし、警告を発するのは、リリアンの薔薇さまとしての私の最後の仕事だと、たったいま思い知った! これこそが私の天命――というか義務だわ、蓉子!」

 蓉子さんは答えない。聖くんは自分で自分にうなづいて言葉を続ける。

「だいたい貴様の同類というのはあまりにも謎だらけだ。そういえば男色家をスミレやパンジーに例えることがあるそうじゃないか。それって何か聞いたことない、蓉子? たぶん何か、これこそが男色家の本質にかかわるような気がするな。色がムラサキってあたりが引っ掛かるのか。ムラサキ!――色だけでも怪しさいっぱいだ、ねえ蓉子――ねえ!」

「私が知るものですか。それこそ柏木さまに伺ったらいいでしょう」

 おやおや、と柏木は思った。

(つれないな紅薔薇さま、では)

 すかさず柏木は蓉子さんの返事の後を引き取る。

「僕も知らないね。君の知識の豊富さにはただ驚くばかりだ。ただし僕の知識ではスミレといえば、昔から奥ゆかしい花と決まっている。いっそ薔薇さまを引退後はスミレを目指すのをおすすめするよ」

「黙れ、このバラプリ、ギンナン、スミレ男!」

「バラのつぎはスミレかい。華麗に、あるいは慎ましやかにも、花とたとえられるのは男子にとっても光栄なことだ」

 しらじらしく柏木は見当違いに応答する。聖くんはむっ、と口を引き結ぶ。それを見て、

(ここはひとつ、肉を斬らせて骨を断つか)

 柏木は意地の悪い笑みを浮かべた。

「ところで、そんなに突っかかってくると、他人目にはひょっとして僕に気があるんじゃないかとでも――思われるんじゃないかな、白薔薇さま」

 そう言うと軽く唇のはしをつり上げ、

「いいの?」

 と付け加えた柏木。

(われながら気色の悪いことを言ってしまった)

 でも聖くんのほうがダメージは大きいはずだ――と思っていたら、白薔薇さまはすかさず答えを返した。

「ほほう貴様、男色家の分際で、髪がみじかけりゃ女でも、かろうじて勃つか」

 カッとなるかと期待していた柏木は、不意をつかれて大きく目を見開いた。

(――たつ?)

「……君、いま何といった?」

「気の毒に耳が悪いのか。ショートなら女でも〈たつ〉のかと、言ったんだ」

 聖くんは一言一言、はっきりと発音した。

 すぐには二の句がつげなかった柏木。だいたい下ネタは苦手なんだよ僕は、いくら男子校育ちでもさ。

 少しおいて、軽蔑した口調で吐き捨ててやった。

「……おやおや、こんな生徒を野放しに卒業させようとはね。仮にも伝統ある私立、リリアン女学園ともあろう学校が!」

「なにをいう、かりにも貞節と由緒ただしきお嬢さま学校、リリアンの白薔薇さまをつかまえて『こんな』とは、貴様こそ礼儀知らずの、つくづく失敬な男だ。野放しというなら貴様こそ、いうなれば鎖がないのをいいことに好き勝手、子羊ねらいの狼じゃないか」

 そこで、そうそう、と手を打ち、

「生徒たちに選挙で〈セレクト〉された会長の、股間がムクムクそそり立って〈エレクト〉じゃ冗談にもならない。花寺学院もこんな不行跡者をよく卒業させる気になったな」

(ほほう、〈セレクト〉に〈エレクト〉か、みごとに韻をふんでさすがに英文科志望の教養――)

 なんて思うわけないだろうが! どこのお嬢さまの貞節の、何の由緒が正しいだと! おい、何とか言ってくれ、

(君のほうはさすがに違うはずだな紅薔薇さま!)

 ――と思ったら、蓉子さんはとうから、あらぬ方向を向いていた。

 干渉するつもりは一切ないと明らかだった。

(ふん、そうか)

 声高に攻める側と、沈黙を守って援護する側と、連携しての攻撃はすでに次の段階に移り、照準はいまや僕という目標そのものに合わされている。

 柏木はあらためて顔つきも厳しく、聖くんをにらんだ。

「君にはどうも、僕について偏見どころか、はげしく、かつ積極的誤解があるようだね」

 聖くんは余裕で笑いとばす。

「私だけの見解じゃない。ちなみに貴様を〈狼〉と呼んだのは祐巳ちゃんだよ」

「これは心外な。かわいいユキチの近親者にそんなふうにみられるとは。まあもしそれが本当ならば、確かに僕の不徳のいたすところも、ないとはいえないだろうが」

 わざとらしく顔をうつむけ、手の動きもしなやかに額を押さえる柏木に、

「フトクでいたされずとも細くったって、彼氏はイヤっていうだろうよ」

 聖くんはからからと、いかにも楽しそうな笑い声をあげた。

「君がいったい何を楽しんでいるのか、僕にはさっぱり分からないね」

(だめだ。こういう路線で攻撃されるのは明らかに僕の得手じゃない。何とか話を別の方向へ持っていかないと)

 頭の中で大至急、今後の話し方を再計算しながら、柏木はこっそり唇をかんだ。

 ――それにしても川か海さえ近くにあれば、このような無作法で下品な女は、さっさとフクロづめにしてヒモでしばって、水底ふかく沈めてくれるものを!!  

 

  3

 

「それくらいにしておきなさい、聖」

 いきなり蓉子さんが口をはさんだ。やれやれ、やっとお出ましか。

「なんで」

「いいかげん見苦しいからよ」

「どこが」

「思いきりオヤジの下品路線で攻めて、しかも暗黙の了解で他人のサポートまであてにする。そういうのを普通は〈見苦しい〉というのよ」

 敵の前で作戦をすっぱ抜かれて口をぷぅと、不満げにふくらませた聖くんをおいて、蓉子さんは柏木のほうに向きなおった。

「ずいぶんと嫌われておいでなのね、柏木さま。いったいお正月に何があったんでしょう」

「中身はお聞きおよびではなかったですか?」

「祥子やこの白薔薇さまからは、鉢合わせしたと聞いただけです」

「なに、少しばかり下らない口論をしただけですよ」

 ――実際あれはしょうもない、ただの口喧嘩だった。聖くんとのやり取りには、どうも進展がない、と柏木は内心で苦笑した。

 蓉子さんは正面から柏木の顔をみつめた。

「では、わたしもひとつ、手合わせをお願いしたいわ」

(――おお紅薔薇さまよ、おまえもか)

 柏木はさすがに毒づいた。

 

「――それでは柏木さまは、あくまでも自分は祥子のためを思って、早めに引導をわたしたのだとおっしゃるのね」

「引導とはいささか不本意なおことばですが、確かにそういうことになります。僕は何よりもまず、さっちゃんの将来を束縛したくはないのです」

「なにいってんだろ、貴様そもそも女とやれる?」

 柏木は聖くんの横槍にはとりあわず、ひたすら蓉子さんだけに視線を合わせていた。

 明らかに柏木の笑顔などにいまさら口説き落とされない蓉子さんは、きょうは口先だけの言い訳をおよそ相手にするつもりはないという姿勢だった。

 むろん家の内情など他人の面前で口にすべきことではない――子供のころからそう厳しくしつけられてきたのを忘れたわけではない。だが祥子の〈姉〉とはいえ、たかが〈部外者〉の蓉子さんに話したところで何ほどのことがある――というのが柏木の判断だった。

「紅薔薇さまがよくご存じの通り、小笠原の当主直系の血筋をうけつぐ孫は二人だけ、本家のさっちゃんと、男子は外孫の僕だけです――そりゃ、他にいないとは限らないですけど、財産はともかく家系の相続ともなれば対象になるのは僕たち二人だけです。だから将来の小笠原家は祥子に婿養子をとるか、でなければ僕が柏木姓を捨てて本家の養子に入るしかない――」

 柏木がつい祥子、と呼び捨てにすると、はじめて蓉子さんの眉がピクリと上がった――そのまま黙って続きをうながしてくる。

(――ああ、そうか――〈さっちゃん〉はよくても〈祥子〉が許せないか)

 柏木はすこし納得した。ひといきついて冷水のグラスを引き寄せ、空であることに気がついて横にとりのけた。そのまま言葉をつづける。

「――しかしもっとも問題がないのは、僕自身が祥子と結婚する道です。そうすれば小笠原家も、未知数の他人を身内にむかえる危険をおかす必要がない――まあ、大体がへたな名門や財産家と縁を結ぶのは、かえって面倒なことになるケースも多いですからね。よほどの理由がなければ身内からあとつぎをさがすのが万事につけて無難です」

 そこまで口にして、柏木は軽い笑い声をつけくわえた。

「ひきかえ僕自身に小笠原本家の後継者にふさわしい、十二分な資格が備わっていることは、すでに一族の誰しもが認めるところなのですから」

 聖くんが横を向いて舌を出す。もっとも落ち着いた口調のせいで、耳にする分にはうぬぼれどころか、それはむしろ自己分析の冷静な響きをおびて聞こえるはずの言葉だった。

 蓉子さんもいまさらそんなことに突っかかるつもりはないようだ。

「小笠原の家系といっても、それこそ扇かざして歌よんでた平安時代や、家督にお跡目にお家騒動の江戸時代でもあるまいし、つまるところその本体はたかだか株式会社の経営でしょう。いまどき経営者が世襲でなければいけないなんて、失礼だけど時代遅れの思い込みがすぎるんじゃないかしら」

「お言葉ですが、では筆頭株主の地位や先祖伝来の財産にあぐらをかきながら一生を過ごせとでもおっしゃるのですか。それに他人まかせの冷や飯食いに甘んじているようでは、仮にも男子たるもの、ふがいないにも程があるとお考えにはなりませんか」

「貴様はまた、男だ、何だとそんなことばかり――」

 聖くんを蓉子さんは鋭く手で制する。ここまできて話をそらせたくないとみえた。

「なるほど大したお覚悟です。ですが柏木さまの男子のお覚悟というのは、では小笠原のお祖父さまや伯父さまがたと、具体的にはどこが違うのですか」

「困りましたね。れきとした目上のことをうんぬんするのは望むところではありませんが、あえて申し上げましょう。外祖父や伯父たちは、自分たちについては自分だけのプライベートのスペースと、そしてステディを確保する。他方ではたとえばすでに他界した小笠原の祖母について、あるいは清子伯母や祥子に関しても、彼女たちには閉ざされた小笠原の家の中以外で生きることを認めようとしない態度だ。そこがなによりも勝手なのです」

「――すると柏木さまは、祥子の男嫌いなるものは、そのあたりの男性がたの身勝手さに原因をもった反発である、とお考えなの?」

「そうです」

「だから自分がそうするのと同じように、祥子にも同じ、自由なプライベートを保証する。それこそが祥子にとっても最終的にもっとも幸せな、かつ柏木さまにとってもあの子の理解を得られる道であると」

「そういうことです」

 柏木は短くそう答えて、

 ――やっと、蓉子さんの表情が、いつのまにか微妙に変わっているのに気がついた。

 それは反発でもなければ多少の理解を示している、というわけでもない――まったく読めない顔だった。

 蓉子さんはふと、目を伏せた。

「――なるほどね」

 と、彼女はひとりごちた。

「すこしは分かっていただけましたか?」

「――いえ、でも柏木さま、ではあらためてお伺いしますけれど、あなたのお考えはお考えとして、しかしそもそも勝手に周囲から婚約者と決められたあげく、その婚約者当人から、自分は好きにやるのであなたも好きにやってくださいとこれまた一方的に宣告される――十分に、あの子にとっては〈身勝手な〉要求とは思いませんか?」

 柏木はハッとなって――その一瞬、言葉がつまった。

 でも意見は変えない。

 いや、変えられない。

 そうだ。この、「変えられない」という言葉こそが、僕らにとっての唯一の真理なのだから。

「それがこのような家系に生まれたものの運命です。そう、自分で何もかも決められるわけではない。だから、僕が幼いころからことあるごとに、そのことを思い知らされてきたように、女の子のさっちゃんにもいずれ分かる日が来るでしょう――時間が解決することです」

 柏木はすっかり冷めてしまった紅茶を――ウェイトレスは気をきかせたのか、あるいは敬遠したのか、とにかく来てくれないので、いつまでたっても水のグラスは空のままだった――口に含んで息をついたあと、語気をつよめた。

「さて紅薔薇さま、これはもはや、これ以上この場にふさわしい話題とも思えませんが」

「そうですね、無作法はお詫びします。それでは無作法ついでに、この場を借りてひとこと、最後に申し上げておきますが、あなたの理屈は」

 蓉子さんの顔には謎めいた微笑が浮かんだ。

「わたしには、不愉快です」

 紅薔薇さまは言い放ち、ぴたりと口をつぐんだ。

 その物言いは――威丈高ではなくて、むしろ不思議にやさしさに満ちていた。

 そのこえに、柏木も沈黙するほかなかった。

 

  4

 

 キキキキィッ!!――ドンガラ、ガシャン!!

「なにあれ――って、江利子じゃない!」

 騒音と聖くんの声が沈黙を破った。

(えりこ?)

 柏木は窓の外を見た。反対側の歩道そばで自転車が転倒していた。男が痛そうに膝をさすっている。その男の横を通り過ぎていくヘアバンドの少女――ふらふらと足をもつれさせて、ゴン。

 盛大に電柱にぶつかったあの女の子は、なるほど見覚えのあるリリアンの黄薔薇さま――そう、鳥居江利子さんじゃないか。

 「ちょ、ちょっと江利子ったら」

 聖くんがあわてて足早に出て行った。ついていった方がいいか――と柏木は目で後を追う。見ると外に出た聖くんは道を突っ切り、やっと立ち上がった男に何度も頭を下げ、自転車を引き起こすのを手伝った。

 さいわい絡まれることもなく、男がそのまま自転車を押して去っていくのに聖くんはもう一度頭を下げて、それから黄薔薇さまの手を引いて帰ってくる。

「ありがとう、心配なさそうですわ」

 蓉子さんが会釈してきた。柏木が外に注意を払っているのに気がついていたのだろう。どういたしまして、と答えて――柏木はふと、黄薔薇さまの格好を目にとめた。

「おや、あのコートは……近場むきではないし、どこかへお出かけだったようですね」

 柏木はそう指摘して、有名なブランド名を口に出した。つまりそれなりによい値段の品物ということだ。蓉子さんはそれを聞いて不審そうだった。

「江利子、あまりそういうのには関心がないのに……珍しいわね」

 黄薔薇さまをともなって聖くんが戻ってきた。やたらと上機嫌で――よく分からないが黄薔薇さまに会えてそんなにうれしいのか――スキップしかねない勢いのよさだ。

 ご機嫌の聖くんは席に戻るとパンパンと元気よくソファを叩き、

「まったく危なっかしいわね。とにかく、座って座って!」

 黄薔薇さまはコートを脱いで、言われたとおりにおとなしく座った。

「……なにをやってるの」

 眠たげな声に、蓉子さんは何と答えるべきか――ちょっと迷ったようにみえた。

「……いきあったのでご一緒にお話していただけよ。あなたこそどうしたの、ご無沙汰だったじゃない」

「ええ……そうねえ……入試もおわったし……いろいろ……いくところがあって……」

 黄薔薇さまは気のない返事をかえすと、ちょっと長めにあくびをして、はじめて柏木に頭を下げた。下げてそのままゴン――今度はテーブルに頭突きした。

 やっとウェイトレスが来た。聖くんがメニューを黄薔薇さまに見せてオーダーをせかす。

「……ラプサンスーチョン……」 

と、何だかマニアックな品種の紅茶を指さしてから、黄薔薇さまは聖くんにたずねた。

「……で、おはなしって、なに?」

 聖くんが待ってましたとばかりに口を開く。

「何ってバラ族よ、バラ族。バラ族の生活の現在と未来についてよ」

(おいおい――僕は間違っても蓉子さんとそんな話をしていた覚えはないぞ、聖くん)

 柏木はさすがにあきれた。聖くんの腹が読めた。要するに今度は蓉子さんの代わりに黄薔薇さまをつかまえて、こちらの悪口を並べたてようというわけだ。まったく、この執念深さこそがいかにも〈女〉だよ。

 で、対する〈女〉――黄薔薇さまはというと、

「……ばら……ぞく?」

 まのびした口調で問い返す。

「そう、そう、そうよ。バラ族よ、サブよ、ゲイよ、ホモよ、やおい全開まっさかり!」

「……さかり?」

 幸か不幸か、黄薔薇さまの反応はひたすら鈍かった。いいタイミングだからツッコミを入れてやろう。

「おや、こちらはさすがにそんなことに関心がおありでないとみえる。これぞ本当のリリアンの薔薇さまの品格というものだ。白薔薇さまも見習われてはいかがですか?」

 せっかくの忠告に振り向きもせず、聖くんは一方的にしゃべりつづける。

「そうよ、さかりよ、こちらのさかりのついた、あぶない王子さまよ。よく知ってるでしょうが、江利子も。去年、祥子をつかまえて大騒動をやらかした、この王子さまのことは」 

 無遠慮に柏木を指さす聖くん。

 その指先を見て、まるで今はじめて、人がいるのに気づいたといわんばかりに、ひっそりと――おうじ?、

「……だれだっけ?」

 黄薔薇さまは静かにのたまった。

「――――――――は?」

 聖くんはポカンと、あっけにとられた。

 柏木も――さすがに反応に困ったね、これには。

 ところが蓉子さんはというと、こちらは奇妙なまでに冷静だった。

「やっぱりひょっとして、またフヌケ江利子なの?」

 蓉子さんは黄薔薇さまの顔をのぞき込んだ。それから、

「いやね、またよ……どうしたのかしら、このひと」

 と不安そうに顔をしかめた。

 ――なるほど、確かにこの黄薔薇さまを「フヌケ」とは、言いえて妙だ。

 柏木がよく分からないなりに納得する一方で、聖くんが怒り出した。

「えっ、江利子っ、あんたってばっ! こんな大事な時に、いくらフヌケて電柱に頭ぶつけたからって、記憶までなくしたの?! 王子よ王子、柏木王子じゃないの!!」

「かしわぎ……?」

「柏木よ、柏木優!! 花寺の、生徒会長の、いや元会長か、とにかく花寺の、柏木よ、バラ族の、ゲイの、ホモの、祥子の、婚約者!! 祥子のバラホモ! 紅薔薇さまとこのホモッ、いたっ!」

 テーブルの下で蓉子さんが蹴りとばしたらしい。それでも痛みにめげずに聖くんはしゃべりつづける。

「つ、つまり祥子の婚約者だけど実はホモ、バラ族だったって! 学園祭のとき、あの場にいた人間は、あとでみんな聞いたじゃないの! 理想の王子さまとは真っ赤なウソ、実は女に興味のない、下級生とかの男の子のケツを追っかけまわす、バラ族だったって!!」

(――君たち、みんなして、そんなことを触れ回っていたのか)

 さすがに柏木はちょっとムカッとした。

「……バラ?……うちの学校のこと?……」

 黄薔薇さまは――これでもまだよく分かっていないらしい。

 聖くんは黄薔薇さまの様子にはかまわず、いらだって早口にしゃべりつづけている。

「しかし柏木って実は趣味悪いかもしれないわね! こういう男に限って、かわいい男の子よりはヒゲ面の熊みたいな男性が好きとか――そう、熊――人間版の熊よね。ヒゲの生えた熊――熊といえばクマソね! ほら、むかしの日本のお話にあるじゃない、クマソとかヤマトタケル――ヤマトタケルは女装か、女装して東北のクマソを攻めたのよね」

(――僕の日本神話の記憶とは微妙に違うような)

 柏木は少し考え込んだ。

「――そうよ柏木って、実は男の子じゃないかもしれない。だいたい花寺高校といったって、当然美少年ばかりじゃないわ! 中学生より年くってる分だけ、実はむさくるしい熊の方が、多いんじゃないの? そうよ熊男が――花寺の廊下も教室も熊のヒゲ面がずらっと並んで、で、柏木がその中をうれしそうにさわりまわって、ああ、何てさわり心地がいいんだ、このチクチクしたヒゲの手触り――とかやってるのかも――」

(よくぞ他人をここまで悪しざまに罵倒できるな、君は)

 柏木がむしろ感心しかけていたそのとき、黄薔薇さまが顔を上げてつぶやいた。

「熊?……ヒゲ?……花寺?……柏木?」

 ――どうやら聖くんの話の中から、耳に残った単語を拾っているようだ。

「そう熊よ、ヒゲ熊男。花寺の柏木、実は熊男――」

 黄薔薇さまは聖くんの話をさえぎった。

 眠たげな目が、とつぜん大きく見開かれる。

「……柏木――さま?」

「?――はい、何か?」

「柏木さま、お伺いするけど、あなた熊のような――熊のような男の人が、お好きなの?」

 黄薔薇さまは目を見開いたまま、柏木の顔を見すえた。柏木はわけが分からない。

「黄薔薇さま、いったい何を……」

 黄薔薇さまは立ち上がった。

「お好きなの、熊のような男の人が?」

 黄薔薇さまの口から信じられないほど低音の声がもれる。

「熊が?」

 黄薔薇さまは繰り返しそういって、両手をパシッとテーブルにふり下ろした。 

「あ、あの、ちょっと、江利子……あなた、ねえ、どうした……」

 聖くんが恐る恐ると口をはさむのを、黄薔薇さまは横目でにらんだ。

「黙ってて」

 聖くんは大人しく黙った。黄薔薇さまの視線が再び正面を向き、柏木は動けなくなった。

(――こういうのって、蛇ににらまれた蛙、いや、蛙ににらまれた蛇、あれ?) 

 柏木は何が何をにらむのか分からなくなった。黄薔薇さまの口が開く。

「熊」

 黄薔薇さまは上半身をテーブルの上に乗り出す。目が細くなった。

「――熊?」

 黄薔薇さまの視線の高さは、座ったままの柏木とほとんど同じになった。

「……あ、あの黄薔薇さま、か、髪が、髪がよごれるかも」

「熊が、お好きなの?」

 黄薔薇さまの声は静かだった。でも、凄みがあった。

 血が凍り付くって――こういう感じだろうか。唾をゴクリと飲み込んだ。

 柏木の頭に去年の学園祭の記憶がよみがえってくる。王子の衣装を試着したあのとき、目を輝かせて笑っていた――あれが黄薔薇さま、鳥居江利子ではなかったのか。

 とすると、これは誰だ――誰だ、僕の目の前に迫ってくるのは?

 聖くんがつぶやいた。

「……ゲイ、これは何かのゲイなの?」

 話題がゲイなだけに、といって、は、は、は……と笑った。

(何だそれは――ああ、ゲイって芸当の芸と、同性愛者のゲイか)

 おい笑える状況か、これが。というか、何で即座に理解するかな僕。

「花寺高校の、生徒よね。柏木さま」

 黄薔薇さまの顔は柏木の目の前だ。こんなに背を曲げて腰が痛くないのだろうか。

「花寺の、生徒よね」

 黄薔薇さまは繰り返した。

「花寺の柏木さま。熊がお好きなのね。熊の男の人。ヒゲの生えた熊。無精ヒゲの熊。熊みたいな男。熊の男が、花寺の柏木さまは、お好きだと。そう考えていいのね」

 花寺。柏木。熊。ヒゲ。男――黄薔薇さまはそれから何度も何度も、同じ言葉を飽きずに繰り返した。目がちょっと血走っているようにみえた。

 ――熊。

 ――ヒゲ。

 ――男。

 魅入られたように動けなくなった柏木の、頭の中で黄薔薇さまの言葉がこだまする。

(――ちょっとまて、だれが、なにを好きだって?!)

 柏木は耳に入ってくる言葉をオウム返しに、口の中でモゴモゴと反芻していた。

 花寺の、生徒である、クマが、いや僕が、生徒が、いや、ヒゲ面の、クマ、ヒゲ、男、クマのような男が――ヒゲグマのような男が、僕の、好き――好みである、

(ヒゲ面のクマ男が、僕の好みなんて、好みなんて、好みだ、あああああ?!)

 立ち上がって、柏木は声を限りと絶叫した。

「ちっ、ちっ、ちがう!! だっ、だれがク、クマなんて、ふ、ふ、ふっ、ふざけないでくれっ! 僕はっ!、僕はっ!、僕はっ!……ぼっくは!、くどくのは、美形だ美形だ美少年だっ、クマじゃねえええええっ!!!………」

 

  5

 

 店内が静まりかえった。

 ささやき声だけが、どこからともなく耳に突き刺さってくる。

 

――「ホモよ、あいつホモ」

  「ホモでクマ好きなんだろ」

  「でも好きなのは美少年だと」

  「するとクマの美少年好きか」

  「クマの美少年というと、プーさんかな」

  「プーさん美少年かしら」

  「何をいう、プーさんは美少年である」

  「ちょっと、見てるわよ!!」

 

 柏木は周囲をひとにらみして黙らせた。

 それから気を落ち着けつつ座る――汗がひたいを伝わって、思わず手をやった。

 聖くんがそれを見て、ふっ、と鼻で笑った。声高らかに宣告する。

「何にしてもとうとう、自分の口で明確にカミングアウトしたな! この男好きめ!」

「――まあこれで、未確認情報も確定になったわね」

 複雑な表情の蓉子さんも、とりあえず同調して断言した。

 再び店内のあちこちで人々がささやく。

 

――「ホモよ、あいつホモ確定」

  「ホモでクマ好き確定なんだろ」

  「でも好きなのは美少年だと」

  「するとクマの美少年好き確定か」

  「クマの美少年というと、プーさんかな」

  「プーさん美少年かしら」

  「何をいう、プーさんは美少年確定である」

  「ちょっと、立ったわよ!!」

 

 テーブルの上から身を起こし、背をピンと伸ばして、黄薔薇さまは立った。

 そこでまたピタリとささやきが止む。

 冬の穏やかな日差しを背に帯びて、黄薔薇さまの立ち姿は慈愛に満ち、まるでリリアンのお庭に立つ、マリア様の白い御像そのままに――

「――あら、そうなの……そうよね、柏木さまですものね……」

 王子さまですものね……そうよ……、心配する必要はなかったのよ、さすがね――突然に、にっこりと、あたたかく微笑んで。

 ずでん――ごん。

 黄薔薇さまは、ソファに倒れるように座り込み、ヘアバンドで全開のおでこをテーブルにぶつけて突っ伏した。

 ……くーか、くーか。すや、すや、すや、すや……

「……寝てる?」

「……寝てるわね」

 聖くんと蓉子さんが横からのぞきこんだ。

 ――寝た?

 寝た、だと。

 ええ寝てますよ、ぐっすり、しっぽり。

 僕に一挙上映おまけ付き、特大公開カミングアウトをさせておいて。

 寝やがりましたよ黄薔薇さま、つっか鳥居江利子よ、おい。

 何か、新手の公開調教か羞恥プレイか、これは。

 もう柏木は本当に、本当に泣きそうだった。でも泣かない。そう、だって柏木は、

(えっと――スマイル、スマイル!)

 ――柏木もちょっと壊れ気味なのだった。

 

 いつのまにか店内にざわめきが戻った。

 むろんまだ視線を感じる。一方で誰ひとり、店員さえも近づいてこない。

(というか、むしろ問答無用で追い出してくれないかなあ)

 柏木は心の底から願った。このままじゃ店を出るきっかけがつかめそうにない。

 蓉子さんが言った。

「ここのお茶も今日で飲みおさめ――いや、絶対に二度と来られないというべきよね」

 と、蓉子さんは低音で聖くんに凄んだ。

「それは――私も困るんだけど。進学後も変わらずこの辺が地元なわけだし」

「それはあなた――自業自得って言葉、知ってる?」

 聖くんは答えなかった。

 蓉子さんが疑問を投げかけた。

「で、江利子、つまりは何を『心配』したというのかしら」

「それは……学園祭のとき、柏木のこと『もう文句なく白馬に乗った王子さま』とか言って興奮してたから。だから王子さまともあろうお方が、むさい熊などと不届きな行為に及んでいるかと『心配』した……かな?」

 蓉子さんは反論した。

「それはおかしいわ。だってお顔をすっかり忘れてたのよ。それに『花寺の生徒』かどうかっていうのにこだわっていたでしょう。そもそも、あれはいったい何?」

 花寺の生徒が熊のような男の人を好きであると、何か問題があるのか――、二人は考えこんでしまった。

 ――黄薔薇さまは二人の横で寝ていた。かすかな寝息を立てるだけで、ピクリとも動かなかった。

 聖くんがいまさら思い出したように言い出した。

「ところで貴様、なにか熊に恨みでもあるのか、それとも単に趣味に合わない――ああ、明らかにそっちか。なるほど、格好いい僕にふさわしいのは、うるわしの美形か美少年だけだというわけだ」

 柏木は相手にせずに席を立った。

 格好がつこうとつくまいと今日はもう――限界だよ。

「失礼する」

 薔薇さまがたに会釈するとレシートをつかみ、顔を上げて、柏木はレジの方へ歩いていった。

「すみません。勘定をおねがいします」

「は、はいっ」

 おない年ほどのレジ係の少年は柏木の顔とレシートと、視線をさまよわせながら、

「……あの、よろしいのですか?……」

 やっと小さな声でたずねてきた。柏木は少年をにらんだ。

「――はやくお願いします」 

「か、かしこまりました」

 柏木は札をつかみ出した。手渡された釣りをつかんだ。息を整え、静かに足を運び、出口に立った。自動ドアが開く。外へ踏み出した。

 自動ドアでよかった。

 いま何かに手が触れたら――重みがかかってきたら、また大声でわめきだしそうだ。

 

 人気のない公園まできて、柏木はベンチに座り込んだ。

 思い切り罵倒したいけど――声が出ない。

 ただ深く長くため息をもらしながら、つかんだままの領収書にぼんやり目をとめる。

「……何だこれは?」

(おい二千八百円って、たかが紅茶一杯だぞ、そんな値段がどこにある――)

「あ、あ、あ、ああああああっ!!!」

 咽喉の奥から声が出た。

 自分のカン違いに気がついた。

 あのレジ係は、わざわざ確認してくれたのだ。もっとも言葉足らずだったけど。

 ――あの、割り勘でなくて、よろしいのですか、と。

「なんで僕が、連中の分までっ、し、支払わなきゃいけないんだっ!」

 しかもごていねいに、黄薔薇さまの追加オーダーまで!!

 柏木は立ち上がって、今度こそ心おきなく大声でわめいた。

「おっ、おっ!……おぼえてろよおおっ!!!――」

 

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