分析の奇妙な博士――斎藤環「やおい」論への疑問とその検討

 

 

 

 以下の文章が斎藤環氏とその著作について多少の知識を前提することをご容赦ください。次に便宜上、対象の作品総体を指す単語として、近年用いられる〈ボーイズラブ〉という用語に基づき〈BL〉と記述します。また原則敬称を略します。

 

 斎藤の議論に「やおい」に関する言及が「オタク」と対にしてしばしば登場するようになったのは、ちょうど二〇〇〇年を境とします。その内容は斎藤自身の総括によれば「オタクの基本的欲望=キャラ萌え:視覚的欲望=所有する欲望、「持ちたい」」に対する「やおいの基本的欲望=位相燃え:関係性への同一化=「なりたい」」ということになります(『網状言論F』(二〇〇一年九月)の斎藤レジュメ「オタク論における超越論的視座」)。

 この「持ちたい」「なりたい」対比には、当初からいくつも疑問や反論が提出されてきました。しかしここでまず指摘したいのは、斎藤の議論の当否はさておいて、議論の中に実例、作品そのものの分析がほとんど登場しないという事実です。斎藤は「オタク」を議論するにあたっては『戦闘美少女の精神分析』(二〇〇〇)にみられるように多くの作品に言及し、あるいは検証したはずです。ところが、なぜか「やおい」を議論するについては、そういった努力を放棄しているとしかみえない。

 しかも次のような記述を読むかぎりでは、斎藤がどこまでやおいを本気で相手にする気があるのか、それ自体が疑わしいと考えざるを得ません。「榎本ナリコという漫画家をご存知だろうか。(中略)一般的にやおい系の作家はおたく以上にみずからを語りたがらない。(中略)ところが榎本氏は、例外的に極めて鋭い批評眼と表現力に恵まれている。正直なところ私には、彼女の漫画作品よりも、彼女の批評文や分析の方がずっと興味深い。彼女との対談を引き受けた際にも、その作品のファンとしてというよりは、批評家・野火ノビタ氏への関心の比重がきわめて高かった」(斎藤『博士の奇妙な思春期』(二〇〇三)二六頁)。斎藤が野火ノビタに高い評価を与えていることはよく理解できます。でも、そもそも野火が一般的なやおい系の作家の中で「例外的」だと断言できるほど、斎藤はやおい系の作家をよく知っていると本当に言えるのでしょうか。

 野火の意見と、野火に基づく斎藤の見解を検討する限り、私は明白に四つの問題が存在すると考えます。第一に、斎藤の議論が「やおい」一般の実例を検討しているとはいえないこと。第二に、斎藤が評価する批評家・野火もまた、自らの体験以外に「やおい」一般の実例を検討しているとはいえないこと。第三に、斎藤がそもそも野火の意見自体を誤読していると思われること。そして最後に、たとえ斎藤の分析が正しかろうとも現実の「やおい」にとっては単に迷惑でしかないこと。この整理に沿って以下で陳述したいと思います。

 

(1) 

 斎藤はつい先日出版された野火ノビタの評論集『大人は判ってくれない』(二〇〇三年十月 以下『大人』)の解説ではっきりと「私のやおい理解のほとんど全ては本書に収録された野火さんとの対談に負っている」と記しています。本書の対談、すなわち『別冊ぱふ、コミックファン8号』(二〇〇〇)に掲載された野火との対談の中には〈やおいは「位相萌え」である〉という野火の指摘があり、この「位相萌え」という言葉こそが斎藤の言う「なりたい=関係性」という議論の論拠にほかなりません。内容的には〈やおいにおいて重要なのはキャラ単独に対する移入ではなく、受け攻めの「カップリング」そのものに対する萌えであり、その受け攻めの相対的階層差という「関係性」自体に萌えるのである〉というところでしょうか。

 やおいの核心が関係性としての「カップリング」にあるという指摘については、最後に触れる機会があると思います。そのことはおいて、ここで肝心なのは、斎藤の一連の議論にとにかく実例分析がほとんど登場せず、そして「僕はあんまり詳しくないんだけど」という斎藤がやおいを紹介するのに挙げたわずかな例示が、竹宮恵子『風と木の詩』(雑誌掲載一九七六年二月−一九八四年六月)、萩尾望都『トーマの心臓』(同一九七四年五月−一九七四年十二月)、吉田秋生『BANANA FISH』(一九八五年五月−一九九四年四月)といった漫画作品に止まる点です(晶文社サイト『生き延びるためのラカン』)。ことに『BANANA FISH』について斎藤は「商業的にもっとも成功したやおい系作品」(『思春期』三二頁)として言及しています。

 なるほどこれらは少年愛を扱った、ことに前二者は読まずとも名前は聞いたことがあるという〈古典〉でしょう。作品知識を欠いた読者相手の例示として適切であるようにもみえます。でも、そもそも実質八〇年代までの少女漫画・商業誌に掲載された当三作品は、成立環境的にはむしろ現在のやおいを代表しない漫画です。

 商業誌における少年愛作品の展開とは別に、七〇−八〇年代のBL全体を実際直接に支えてきたのは、数量的にはあくまでも同人市場です。当時BL専門の商業誌は実質上、サン出版/マガジンマガジン『JUNE』(一九七八年〜)しか存在しませんでした。その創刊にかかわった竹宮恵子は「「風と木の詩」みたいなのを孤軍奮闘でやるのはやだなぁというのがあったので(笑)援護射撃になってくれればと思って」と創刊に加わった理由を回想しています(『小説JUNE』二〇〇三年十月号、栗本薫との対談)。このような環境に大きく変化が起こったのは『JUNE』以外のオリジナル商業誌が多数展開され、市場規模がコミケ外で飛躍的に拡大した九〇年代に入ってのことでした。野火が同人活動を始めたのがまさにこの九〇年代です。八〇年代までの少女漫画商業誌で展開された上三作は、少なくとも九〇年代の同人作家から出発した野火の属する文脈と全くずれた、ある意味で前史的作品なのです。なるほど野火はその『やおい論』(『大人』所収)で体験の初めとして『風と木の詩』を挙げますが、だから現状と短絡できるというわけでもないでしょう。

 加えてBLの少なからぬ部分を支えてきたのは、同人・商業を問わずむしろ小説です。粗雑を承知で分かりやすく書きますが、小説専門誌『小説JUNE』の発刊が一九八二年なのに対して、現行のオリジナル漫画誌中もっとも早かったビブロス『BE×BOY』でさえ創刊はようやく一九九一年のことです(一九九三年『マガジンBE×BOY』として現在に至る)。大規模書店や漫画専門店でライトノベル棚を一望すれば、BL系の小説本が新書文庫を含め、全体を圧して膨大な点数にのぼることがみてとれるでしょう。BLはそもそも小説の比重が大きい。特に九〇年代以降の小説の比率は過大であり、BLを漫画だけで代表させるのは端的に無理があるといっても過言ではありません。

 斎藤の議論が、議論の〈是非〉以前にこういった初歩的事情をどこまで了解したうえで展開されているのかは、きわめて不透明というほかありません。

 

(2)

 作品に詳しくないと言明する斎藤の議論本体は、言明どおり野火の批評への参照に頼り切っています。見方を変えれば斎藤のやおい分析とは、つまりは野火に関する分析です。それをやおい一般論として通用させようというなら、野火でやおいが判るとまでいえるのか。論拠に指定されるだけの資格が野火にあるのか。資格の検討は当然必要でしょう。

 例えば竹宮恵子と共に『JUNE』創刊にかかわり、実作の一方「小説道場」で幾多の人材を育成した栗本薫/中島梓(以下栗本と記す)は、明白に資格を備えたひとりといわねばなりません。BL作品史における栗本の立場はほとんど日本近代文学における鴎外や漱石のようなものです。商業市場にはじめてBLの枠を作り上げた栗本は、いわば権威をもってBLの論拠たりうる作家なのです。

 野火は少なくともこのような意味での権威ではありえません。野火は同人作家/批評家として固定客を擁するレベルではあったにせよ、他方『大人』(以下、注記無しの頁引用は本書を指す)の序文で当人が述懐するように、商業誌サイドではマイナーでしかありませんでした。しかし何よりも、野火が不特定多数的に著名になったのは、一九九六年に書いたエヴァの〈評論〉『大人は判ってくれない』で庵野秀明の知遇を得たこと。そして何より一九九七年より青年誌『ビッグコミックスピリッツ』に掲載の『センチメントの季節』の作者〈榎本ナリコ〉になって以降、つまりBLではない〈普通の漫画家〉になってからです。

 栗本がBLに付いて権威たりうるのは、栗本がBLの作品/批評それ自体において業績を持つ人物だからです。一般的に著名だからではありません。従って青年誌の漫画家・榎本ナリコがいかに優れた作家であろうと、やおい同人漫画家・兼批評家の野火ノビタを参照すればそれだけでBLについて権威的に語りうるわけではない。

 しかしこういった事情は、自分は本質的に「いちオタク」(『大人』まえがき)であると繰り返し述べる本人こそがよく承知しているように思われます。斎藤推奨の批評文である『やおい論』を一読すれば、〈これは自分の体験にすぎない〉と何度もことわる野火の記述が、できる限り「いちオタク」の経験と観察の分析に終始していることがみてとれるはずです。しかもそこには具体的な実例分析はありません。思うに『やおい論』は、一同人作家のメモワールとして読み解くならば意味を持つ著作でしょう。でも少なくとも斎藤の参照の仕方は、やはり期待の過剰さを免れえないとしか思えません。

 

(3−1)

 ところで『大人』に収録された野火の文章や斎藤との対談を読み比べると、そもそも野火と斎藤との間自体に微妙な齟齬が存在することをみてとれます。簡単にいえば、野火がやおいや関係性といった言葉を限定して使用するのに対し、斎藤はこれらの言葉をいわば一般化してしまうのです。

 例えば野火は「関係性」という用語を、やおいにおける「カップリング」という特殊で具体的なあり方を指して全般に厳密に使っています。『やおい論』で野火は「「やおい」同人誌」は「性描写を含むこと以外は少女マンガ的な恋愛物語」であり、「「やおい」に求められるべき関係性とはつまり愛である」と言う(二三二頁)。ならばやおいと少女漫画とどこが違うのかという話になりますが、それを野火は、やおいが「必ず男性同士の間で語られる」という点で「通常の男女のあいだにある関係性」とは異なると明言して、その所以を解説しています(二五六頁以下)。

 ところが斎藤が関係性という術語を用いて〈オタク=欲望=持ちたい=男〉〈やおい=関係性=なりたい=女〉と分別するとき、そこで斎藤が考える男、女とは要するに汎性的な理念モデルです。従って「現実の個人においては男性的要素と女性的要素の複合である前提は当然ある」(『網状言論F』レポート記事による斎藤発言要約)。しかし野火にとって大事なのはあくまでも「現実の個人」であり、「現実の個人」がやおいと少女漫画のどちらの関係性を選択するかこそが肝心なので、汎性モデルなどどうでもよいのです。

 汎性的な関係性でよいのなら、やおいと少女漫画を区別する理由はない。やおいは少女漫画の進化形態だとでも把握するのが自然でしょう。でも「少女マンガ的なもの、ドジな私が男の子に愛されて(中略)、これがすごく早い時期から欺瞞だと思ったんです」という野火にとっては(二七九頁)、少女漫画の関係性とやおいの関係性の両者には、明白な断絶があるのです。

 

(3−2)

 このように斎藤と野火の焦点の置き方は微妙にずれているのですが、それが微妙ですむかを別の事例で確認しましょう。「やおい」という言葉を斎藤はBL一般を指す言葉として使っていますが、野火は原則そうではありません。

 『やおい論』における野火の詳述(『大人』二二九頁以下)によれば、作者側の自嘲的表明に出自するやおいは当初は「男性同士の性表現を含む」作品一般を指していた。しかし「一方で竹宮恵子の『風と木の詩』に代表されるような、少年愛を描いた少女マンガも発展していった。……これらの作品はすでに一般の少女マンガとは別に一ジャンルとして成立しており、「ボーイズラブ」と呼ばれ」、現在ではそのような「オリジナル」でない「パロディ」のみをやおいと称するのだ。――野火はこのように歴史的経緯を説明しています。

 むろん一般総称としてのやおいという斎藤の語法は、当事者を指す「オタク」に、作品本体を指す「やおい」を対比する不自然さを除けば、現在でも便宜上さして問題ないでしょう。野火自身、『やおい論』の中途から注をつけた上で、やおいを汎称として用いています(二三八頁)。

 ただし野火がわざわざ丁寧な注釈と分別を行うこと自体には、注意する必要があるでしょう。野火の慎重な姿勢の背景としては、実際の作者・読者双方において作品に関する通称が存在せず、かつ〈通称〉を設定すること自体への抵抗が強いといった事情が考えられるように思います。例えば近年登場した用語〈ボーイズラブ〉は、少なくとも従来の耽美小説、JUNE、やおいといった指示詞よりはニュートラルだろうと思うのですが、栗本は「ボーイズラブってのがまた、私は全然思い入れを持てない言葉なのよ」と、竹宮恵子ともども抵抗感を示しています(前出『小説JUNE』対談)。

 同じ栗本の「新・やおいゲリラ宣言」(一九九七 『新版・小説道場』四巻収録)、初期『JUNE』の書き手である榊原志保美『やおい幻論』(一九九八)などを併せて読めば、JUNE側がそもそも「ボーイズラブ」を生んだ九〇年代的変化総体に対して、抵抗感を示しているとみることができるでしょう。八〇年代のBLオリジナル作品市場には実質、一九七八年創刊の総合情報誌『JUNE』(大ジュネ)と、一九八二年創刊の小説専門誌『小説JUNE』(小ジュネ)しか存在しませんでした。この時期においては『月刊OUT』(一九七七−一九九五)や編集方針として〈やおい〉なしだったという『アニパロコミックス』(一九七九−一九九三)の両誌を出版していたみのり書房の『アラン』(一九八三−一九八四?)くらいが、かろうじて数少ない類例に過ぎません。この環境が激変したのが九〇年代です。明らかにいろいろな点でJUNEが吸収し切れなかった同人市場の作者を資源に、一説には総計六十誌にも及ぶという大量の「ボーイズラブ」=オリジナル漫画誌・小説誌が創刊されたのです。加えてそれまで存在しなかったBL専用の叢書が出現し、マンガ・小説の単行本・文庫本が発行されるようになって、現在の盛況を形作ることとなるのですが、この盛況の他方で、大ジュネは一九九六年四月号を一期とし、十八年に及ぶ歴史に終止符を打ちました。

 

(3−3)

 野火の所属する九〇年代環境とJUNEとの齟齬は、むろん上記のような商業的事情だけには止まりません。JUNEとは本来「アナーキー」(『新版・小説道場』四巻一四一頁)であると指定する栗本は、「「ただの男女関係のアナロジー」をやるんだったら、ヤオイである必要はない」(「新・やおいゲリラ宣言」(一九九七)、同前収録一八〇頁)といって「昨今のお耽美少女たち」(同前一六三頁)を批判しました。他方、九〇年代潮流の先頭を切って商業誌展開した同人出身作家の山藍紫姫子は「『JUNE』が創刊された時こういう雑誌が出たことがすごく嬉しかったし、投稿したこともある」けれども「『JUNE』とは感覚的に違うというのは感じていましたね」と述べています(第三十一回SF大会(一九九二)の座談会)。

 その山藍は別名・橘小夜子で出した『神よ、この悩める子らのために』(『小説JUNE』一九八七年十月号掲載)で栗本の目にとまったのですが、栗本は山藍の筆力を高く評価しながらも、「JUNEよりさぶでは……」現実のゲイ向けに近い雰囲気だという下読み評を紹介し「リアリティと好感度と筆力はあるが、いまいち「ロマン」に欠ける気がする」と述べました(小説道場第二十回、『新版・小説道場』二巻収録)。この一件の経緯は山藍本人によると、一九八七年当時「J誌からも依頼がきて、橘紫乃の名前を使って書くが、原稿は出来が悪かったためか(?)同誌掲載中の小説道場送りにな」ったといいます(サイト『山藍紫姫子の世界』プロフィール)。この「依頼原稿」が橘小夜子名義の上記作品だとして、「出来の悪」くて「小説道場送りにな」ったのは、たぶん筆力の問題ではありません。八〇−九〇年代の変化は、このような例をみるだけでも、決して親和的、単線的ではなかったのです。

 ここで野火の見解を導入しましょう。野火は対談の中で「「やおい」は大好きだし「やおい」論も書いてますけど、「ボーイズラブ」には失敗しているんですよ」、「売れなかったし、自分で描いてて楽しくなかったですね」と言い、理由として「やおい」=パロディであれば原作の中に位相があるので、そこから出発できるけど、「ボーイズラブ」=オリジナルはそれがない。「それは明らかに嘘なのに、と思ってしまう」と述べています(『大人』三〇〇頁以下)。商業的には九〇年代から登場してきた野火は、でも本人の資質的には九〇年代にどこか違和感を持っている。この点で野火が青年誌漫画家・榎本になってしまった理由は明瞭です。

 以上の事情に照らせば、やおいの典型として『BANANA FISH』を例にとる斎藤の理解は、やはり錯誤に近いでしょう。栗本や竹宮恵子に親昵する吉田秋生が、名実ともにJUNEの影響下で描いた少女漫画である『BANANA FISH』は、現在のやおいに巨大な力を持つ九〇年代ボーイズラブはいうまでもなく、野火とさえ根底的な部分で背反している可能性が高い。野火の考えを整理すればボーイズラブは、そしてたとえ男性同性愛であろうと恐らく少女漫画も、オリジナルであるという点においては、野火にとっては「男性同士の関係性」(二五六頁)を代表できない「嘘」だからです。ただ、自分の認識として「少女マンガは夢だから(嘘でも)いいというのが(私には)ないんです」(二七九頁、括弧内は引用者補)と野火が述べるとき、そこで野火が頭に置いている少女漫画とは明らかに男女恋愛作品のことですので、読者として少年愛『BANANA FISH』にどういう所感を持つかまでは分かりません。ただ少なくとも、野火が自らも『BANANA FISH』のように描くことを望む可能性は、本人の陳述を整理する限りでは低いといわざるをえません。

 

(3−4)

 ここで補助線を一本引きますが、「ボーイズラブ」があたかも『風と木の詩』の延長上にあるかのような野火の記述は、歴史的経緯の説明としては問題が多い。現実の成立展開において「ボーイズラブ」が発生したのは、少女漫画の系統からではなくて、直接にはやおいからです。九〇年代の先頭を切って『BE×BOY』を出版した青磁ビブロス(現ビブロス)は、もともと一九八八年にアニパロ同人=「やおい」アンソロジーを出版することから始まった会社でした。ボーイズラブ漫画の描き手もまた、新人か同人市場からの供給が主であって、少女漫画商業サイドは九〇年代前期、ほとんど干渉していません。

 そもそも読者層や編集方針を考えれば少女漫画でBLを展開するというのには、現在でさえも一定の限界があるというのが普通でしょう。実質的に少女漫画を捨ててBL作家になってしまったあさぎり夕がよい例ですが、これとは反対に、今も活躍する高河ゆん、おおや和美、尾崎南といった、八〇年代やおい同人における人気作家から商業誌に引き抜かれた描き手を例にとってみましょう。『若草物語』(一九八五年 学研)に始まる高河ゆんの商業作品のうち、『アーシアン』(一九八八〜)、『源氏』(一九八八〜)といったBL色の濃い初期主要作は、同時期に高河が縁を持っていた秋田書店ではなくて新書館の雑誌『WINGS』(一九八二〜)で連載されました。小学館の雑誌『少女コミック』(一九六八〜)系統で現在も活躍するおおや和美の場合は当初から男女恋愛作品です。集英社の雑誌『マーガレット』(一九六三〜)で自らのキャプテン翼同人における設定をストレートにキャラに投影した『絶愛』(一九九〇〜一九九一)、『BRONZE』(一九九二〜)を連載する尾崎南のみが、やおいを少女漫画へストレートに持ち込んで今に至っています。『風と木の詩』が出て十年を閲した当時でさえ、通常の少女漫画においては話はやはり簡単ではなかったのです。

 ただ、少女漫画と「ボーイズラブ」双方に違和感を持つ野火が、「いちオタク」=同人作家として商業市場を感覚的に区分しにくいという事情は理解できます。でも例えばウェブのBLサイトを少し当たるだけでも、それらが多くの場合パロディとオリジナル双方を備えていることが分かるでしょう。通常のアニパロ作家は野火のようにはオリジナルに拒否反応を示さない。野火はむしろ特殊な例外なのです。

 斎藤が野火の特殊性に気がついているとは思えません。斎藤と野火の対談は、斎藤が野火の立場を知ることなく、野火もまた斎藤のそのような姿勢に違和感を持たぬまま、食い違ったままで進行したに過ぎないとみることも可能でしょう。

 

(4)

 総括すれば斎藤の分析の難点は分析の当否以前に、対象に向かう姿勢そのものにおいてあるといわねばなりません。でもここで、より本当に問題なのは、斎藤のこの分析によって、やおいが明白に迷惑をこうむるという現実です。

 第一。関係性に目覚めよという斎藤のせっかくの主張は、残念ながらオタクには通用しないでしょう。むしろオタクは〈関係性を通じてのみ欲望できるやおい=女とは、男がいてはじめて欲情が可能になる存在に過ぎない〉くらいにしか考えない可能性が高い。それはやおいに対するオタクの偏見をいっそう増長させるだけです。オタクのホモソーシャル性を論難する東浩紀でさえ『網状言論F・改』序文で「女子のオタクはときに「やおい」と別の名前で呼ばれている」などと迂闊な一文を挿入するのが実態なのですから。

 第二。例えばSF作家野阿梓が山藍紫姫子を『JUNE』と比較して評した折の言葉を引くなら、斎藤の視線がやおいの重要な側面である「セクシャル・ファンタジー」性を無視しかねないからです(既出座談会)。そもそも野火は次のように述べています。「(やおい好きの少女は)やみくもに性的欲望を感じているのではな」い(二五五頁、括弧内は引用者補)。しかし「私が始めて描いたマンガは、少年同士のセックスシーンであった」(二二四頁)。

 やおいが関係性であるというのは、やおいが恋愛物語の形態を取る以上は当然のことで、それはむしろ女性向け作品一般の特徴に過ぎません。それを問わぬまま、やおいを関係性で特化することに、さしたる意味があるとは思えません。第一に肝心なのは〈なぜやおいは少女漫画ではいけないのか〉ということです。「「やおい」は必ず性的なコードを含む。たとえどんなにプラトニックなものであっても、カップルがひかれあうならその瞬間に、すでに性的な衝動は存在する」(二四二頁)と野火は言います。やおいにとって本当に肝心なのは「セックスシーン」であり「性的なコード」なのです。

 栗本が九〇年代に反発するのは、恐らく「アナーキー」すなわち〈社会からの孤立〉を含むことなくして「性的なコード」がまかり通ることを、いわば創作の放棄だと考えているからです。その判断の是非は簡単に問いうるところではありません。でも、もし九〇年代を肯定的に捉えるのであれば、読み解く鍵は「性的なコード」を躊躇なく前面に押し出しうる環境、そこにこそ存すると考えてよいのではないでしょうか。

 ここではじめて、やおいの中核がカップリングにあるという野火の指摘を本当の意味で確認できるでしょう。カップリングとはつまり〈性的なコードを必ず含む、男性同士の関係性〉であり、やおいとはカップリングを通じて欲望と関係性とが〈不可分〉に結びついた作品に他ならないのです。関係性を欲望の上において称揚する斎藤的視線は、その肝心要の不可分性を完全に無視しています。

 私はここで、例えばウェブ上の人気サイト、トップに「訪問者の性別は問いません」と明記するアサムラさんの『少年激空間』(一九九八〜)や、あるいはプロフィールの「性別欄」に「女王様」と書き記してみせる三之梅あふろさんの『暗黒下品浪漫』(一九九八〜)といった作品群のことを思い起こします。官能的な図像、しかも往々にして単独キャラのイラスト展示がかなりの部分を占めて人気を集める、これらのセクシャル・ファンタジーを「軽視」する態度こそが、まさに「「女性の疎外」」(三二〇頁、斎藤解説)でなくて何なのか。

 斎藤の分析がラカニアンとしては正しかろうと、作品を無視して抑圧する正しさに対しては、およそ意味があるとは思えないと率直に応答するしかありません。ところで栗本はいみじくも「「中島梓の小説道場」に入門するからには、最低限の礼節として(中略)一にまず中島梓=栗本薫の各小説を二、三冊くらいは読んでおくこと」と書いています(『新版・小説道場』二巻二九頁)。「読んでおくこと」はやはり〈是非〉以前の問題であろうと思います。

 

〈引用・言及資料(雑誌を除く)〉

・野火ノビタ『大人は判ってくれない――野火ノビタ批評集成』(二〇〇三 日本評論社)

・斎藤環『博士の奇妙な思春期』(二〇〇三年 日本評論社、『こころの科学』九一−一〇五号(二〇〇〇年五月−二〇〇二年九月)連載「レピッシュ思春期現象学」の加筆修正)

・東浩紀 編著『網状言論F・改』(二〇〇三年 青土社)

・中島梓『新版小説道場』全四巻(一九九二−一九九七 光風社出版、『小説道場』全三巻(一九八六−八九 新書館)を増補)

・榊原志保美『やおい幻論』(一九九八 夏目書房)

 

〈引用ウェブサイト〉(URLは二〇〇三年十二月十日現在)

・斎藤環『生き延びるためのラカン』 『晶文社WONDERLAND』http://www.shobunsha.co.jp/に掲載 

・『網状言論たち』(『網状言論F』など収録) 東浩紀『hirokiazuma.com』http://www.hirokiazuma.com/に掲載

・『やおい・パネル・ディスカッション1』(第三十一回SF大会(一九九二)、ひかわ玲子、野阿梓、山藍紫姫子、染矢有紀、小谷真理)、および『同1』(第三十九回SF大会(二〇〇〇)、大野修一、小谷真理、永山薫、野阿梓、ひかわ玲子、柏崎玲央奈) 『野阿梓ホームページ』http://member.nifty.ne.jp/Noah/noah.htmに掲載

・『山藍紫姫子の世界』http://www.yamaai.com/

・『ジュネ作品リスト一九七八−二〇〇二』 小説JUNE公式サイト『June-NET』http://www.june-net.com/に掲載

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